誇るべき日本文化、その諸能の原点を知る

はじめに

般若心経 釈尊の悟り五蘊皆空と普遍意識

風帆の歩きと魂合気の術
仏教の開祖釈尊は?

☆プロローグ

仏教の開祖釈尊は紀元前(654---574)の人で、姓はゴータマ、名はシッダールタといいました。
釈迦とは釈迦牟尼の略称でシャカ族出身の聖者(牟尼)という意味で、釈尊はその異称です。
また仏、即ち仏陀という呼称は、目覚めた人、真理を悟り、法を説いた人のことですが、仏教では開祖、釈尊になります。
仏教とはなにかというと、簡単に言ってしまえば、すべてのものが、仏であるという教えです。善人も仏であり、悪人も仏であり、山川草木の一切が仏であるという真理です。
曹洞宗の開祖道元禅師は、若いころに「総てが仏であるなら、この自分も仏であり、修行によって仏になるという話は矛盾する、なぜ修行する必要があるのか」と疑問を持って、色々な人に質問するのですが、誰からも納得いく答えを得ることができませんでした。
答は、やはり仏になるという決心と自覚、それと修行が必要なのでしょう。
仏になるという決心がなければ、神仏の守護が得られないと思います。


道元禅師は二十四才で中国に渡り、如(にょ)浄(じょう)禅師のもとで厳しい座禅修行に励んでいました。
ある日一人の修行僧が座禅中に居眠りしているのを如浄禅師が見つけ「参禅は、心身脱落なり」と一喝しました。
その言葉を傍で聞いた道元禅師は、それで大きな悟りの境地を得たといいます。
心身脱落とは、心身があらゆる束縛から開放されて、絶対の自由を得たという事であり、この状態を「万法に証せられる」と述べています。
このような悟りのきっかけは、人によって異なるので、同じ言葉を他人が聞いても悟ることはできません。


修行とは現象世界(生きているこの世界)で自分を認識する行為(自覚)であり、これは宇宙全体の創造活動とも一致します。
宇宙全体に遍満する唯一の生命そのものが、自身を認識するために現象界に、形を採って顕れてきたもの、それが修行中の人間の姿でもあるわけです。
「万法に証せられる」の心は、普遍性(全てに共通に存すること、あまねく行き渡ること)でした。


般若心経は、日本では宗派を超えて(浄土真宗と日蓮宗系を除いて)広く読経されたり写経されたりしているポピユラーな経です。
般若心経は、数多の般若経典群で説かれる核心を凝縮した経といわれています。
般若経は大乗仏教の先駆をなした経典で、最初の成立は、釈尊の入滅後五百年も経った紀元前後の頃に、多くの山林修行者が、瞑想体験中に如来の法を聴聞したものが結集されて成立したとのこと。
如来とは過去の仏の如く来られた、つまり仏陀の如く来られたという意味です。
般若心経はこんな成り立ちですから、説かれている内容が、釈尊が生前に説いたこととは違っていても仕方ないのですが、前半と後半の主旨が異なっていることが気になりました。

前半には「ギョウジン行深ハンニヤ般若ハラ波羅ミタジ蜜多時 照見(ショウケン)五蘊皆空( コウン カイクウ) 度一切苦厄( ド イツサイ クヤク)」とあって、これは「悟りの完成のためにギョウ行をギョウ行じていたときに五蘊皆空( コウン カイクウ)を照見して、一切の苦厄をワタラ度せたまえり」と訳すことができ、悟りには行を行じることが必要と説かれています。

しかし後半の「ノウジヨ イツサイ ク能除一切苦 シンジツ フココ真実不虚故 セツハンニヤハラミタシユ説般若波羅蜜多呪 ソクセツシユワツ即説呪曰」では「一切の苦しみを能く除き、真実であって虚(ウソ)はない。故に般若波羅蜜多のマントラ呪を説いていわく」とあって、悟りにはマントラ呪を唱えることが必要となります。
そのマントラ呪とは「ギヤテイ羯諦ギヤテイ羯諦 ハラ波羅ギヤテイ羯諦ハラソウ波羅僧ギヤテイ羯諦 ボジソワカ菩提薩婆訶」のことです。

マントラ呪とは仏教以前にバラモンが帰依していたヴェエダ聖典に於いて、神々に呼び掛け祈願する呪句でしたが、
それらの呪がバラモン出身の僧によって仏教教団に持ち込まれ大乗の経典に取り入れられました。  
「般若心経の真髄は、このマントラ呪にあり、前半は、飾りに過ぎない」と述べる人が多いです。
この呪の部分は秘蔵真言分とも言われます。これを心に深く念じ、口に唱えれば、彼岸の境地に行ける、と言うのです。
ところで、釈尊が、制縛(ヨーガ)や陶冶(ドヤナ)(禅)を行じられたときの修行では、呪は誦えていないし、教団においても、呪を誦えることはしていませんでした。
釈尊は、菩提樹の下で悟りを開いたと言われます。
このときの悟りが「シヨウケン ゴウンカイクウ照見五蘊皆空」でした。

☆照見五蘊皆空の意味

「照見五蘊皆空 度一切苦役」
五蘊皆空を照らし見て、一切の苦厄から渡ることができた。
これこそが釈尊の悟りの核心です。
では「照見五蘊皆空」とは、何でしょうか。
「五官から生じる執着をなくすこと」と言いきった解説書がありました。
これで解説したのでしょうか、びっくりしました。
執着をなくすことは、たしかに悟りの要素としては大切なことでしょう。
しかし「執着をなくすこと」は釈尊が言うまでもなく、当時も修行者の常識でした。
釈尊の悟りを、そんな単純な言葉で言い切れる筈はありません。

五蘊皆空とは、釈尊が、ちょうど空から見下ろしたように、自分や、あらゆることを客観視できる意識状態となり、心の創作物(仮相)と、実際にあるもの(真理)との識別ができたことです。
現在の人々の意識は、ひとりひとりの人が、自分と他人は、まったく別の存在と信じている分離意識です。この分離意識は普遍意識とは対極のものです。
釈尊は分離意識を解き離して「自身が宇宙全体に遍満する唯一の生命である」と悟りました。釈尊はこの状態を波羅(彼岸)と言い表しました。彼岸は、死後の世界(幽界)ではないのです。

宇宙一切の出来事を生ぜしめている唯一の生命の、ひとつの側面であるココロは、様々な個体の中に同時に顕れている普遍意識が、人々の心にも行きわたっているはずですが、
現在の人々の意識は、肉体の五管から入ってくる狭い波動領域の情報に制限され、五蘊の状態にも制約されるので個々の意識が、自他の区別を作り出していることを、当然のように感じているのです。
見ているものが仮相(創作物)となってしまう、そのような見方が生じる元が五蘊の作用だと、釈尊は発見したのです。

不安、恐怖、憎しみ、怒りといった、否定的な想念も、自我の意識によって作り出された創作物(幻影)だったのです。
五蘊が空の状態にあれば、五蘊の働きが消え、一切の不調和に囚われることがなくなることも分りました。

☆空に関して解説書では?

話は空にかわりますが、空の梵語はシューニャターで、実体の無いこと、空(うつ)ろ、空っぽ、ゼロそんなニュアンスです。
ある解説書では「こころを無にする」とありました。この言葉自体は真理ですから、
そう言われると、なんとなく、そうかと納得してしまいます。
それでは空を“心を無に”と言い換えて般若心経を読んでみましょうか。
すると全てが無の行進になってしまい、何がなんだか解らなくなってしまいます。

シューニャターには無とは異なる意味があります。
私たちは一よりも小さい数について何割何分何厘何毛と数えることがありますが、このルーツはインドにあって、インドから中国に渡り漢字に訳され、我が国に伝わりました。

この中に空と呼ぶ単位が存在しています。
単位を冪(ペキ)指数で表わすと、何割何分何厘の厘が十のマイナス三乗であるように、空はマイナス二十二乗になります。
ちなみに清(ショウ)がマイナス二十三乗、浄(ジョウ)がマイナス二十四乗となっています。

現在の科学で検出される最小の大きさは、世界最大の粒子加速器で検出されるマイナス十八乗センチメートルということです。
基本になる大きさが不明とはいえ、マイナス二十二乗になれば、いずれにせよ、検出不可能の単位です。
しかし確かに存在しています。それが空ということです。

糸川英夫氏は(新解釈空の宇宙論)の中で「絶対的な真空の一点に狙いをさだめてガンマー線を照射すると、電子と陽電子という正反対の双子の粒子が生まれてくる。
つまり、真空というのは無ではなく、空である」と書いています。
真空といえども超微粒子(エネルギー)が満ちているということです。
つまり空間と物質の差は、点の濃淡の差とも言えるのです。
いいかたを変えれば、エネルギーの表れ方で空であったり物質(色)であったりするのです。
テレビは、波動に乗って送られてきた電波を受像機で受けて映像に変えます。
色々に発光した点の集合がモニターで映像として表現されています。
この世界もこれに似ていると考えられます。

我々は肉眼を通して光を知覚していますが、光の電磁波として見える範囲はわずか1オクターブにすぎません(0.45㎛―0.9㎛)このように僅か一部の電磁波にだけ器官が反応して映像として心の中に作りだされるのです。
見える範囲が異なれば、見方も変わってきます。
光の波動は、電波、マイクロ波、遠赤外線、近赤外線、可視光線、紫外線、X線、γ線などと呼んでいますが、境目があるわけではありません。

人も、肉体を表現している波動領域のみではなく、様々な波動の領域を持っています。
エーテル体、アストラル体、メンタル体もしくはコーザル体、ブッデイ体とありさらにその上も無限につながっているのでしょう。
これも境目があるわけではないのですが、便宜上、そのような名前で区分がされているのです。

神道で、これに相当するのが、荒魂、和魂、幸魂、奇魂です。
波動領域を無限大まで含むのが一霊四魂の一霊です。一霊は宇宙全体に遍満する唯一の生命です。
神道では一霊四魂と書いて人と読ませることがあります。人としての、本当のあり方が一霊四魂なのでしょう。人を表す一霊四魂には身体の字が入っていません。身体は魂の乗り船なのです。

釈尊の「十方無限世界我の身体なり」つまり宇宙は私自身である。という悟りは、ブッデイ体意識での悟りと言われますが、般若波羅蜜多を悟った者でなければ確認できませんね。
未来を楽しみにしておきましょう。

☆梵我一如

「五蘊皆空とはなんだろう」という話にもどります。
これを理解する為には、般若心経の用語が、当時はどのように理解されていたか推理する必要があります。

紀元前五百年当時の印度には階級差別(カースト)があり、一に僧侶(バラモン)、 二にクシャトリア王侯、武士、 三にヴアイシャ農工商庶民 、 四に奴隷(シュードラ)となっていましたが、その奴隷よりも下に、旃陀(センダ)羅(ラ)という階級の人々もいました。
旃陀羅は上位の階級からは、接触してはならない者(不可触民)として差別されていました。
涅槃経には「五蘊とは旃陀羅のようだ」と記されているそうです。その真意は何か、読み終わってから考えてみてください。
ちなみに釈尊は、「全ての生命は、全て平等であって、生きているのではなく、大いなる慈愛によって生かされているのだ」と教えています。

教えの通り、釈尊の弟子阿難陀(アーナンダ)に恋した、旃陀(センダ)羅(ラ)の娘プラクリティもまた、釈尊の弟子となっています。

バラモン僧侶のヴェエダ聖典にはボンガ イチジョ梵我一如と呼ばれる哲学があります。
これは、宇宙の根源であり永遠不滅の実体であるブラフマン梵天と、自己のうちにある人間の本体である我(アートマン)との合一を体験することを目指すものでした。

梵天(ブラフマン)と等しい我(アートマン)を自分のフリダヤ(命の根源)に得られることが人間として最高の価値であるという教えであり、このため当時農工商庶民(ヴァイシャ)以上の人々のあいだでは、家をすてて修行にでるという風習がありました。

当時のバラモンの教えでは、眼耳鼻舌身意の六根の感受作用のありかたが我(アートマン)を形成しているという考えがあり、
梵天と一つの如くになれる為の我(アートマン)を獲得するには、「ロクコン六根を清浄にして煩悩を消滅させること」と思われていました。
六根を清浄にする方法として
制縛(ヨーガ)(心を対象に結びつける)
ドヤナ陶冶(静かに広く思念する=禅)
タパス苦行 等があり、当時はタパス苦行が最も一般的な方法でした。
制縛(ヨーガ)と陶冶(ドヤナ)(禅)はどちらも瞑想による精神浄化法ですが、内容的には異なる感じです。
心のあり方としては、広く思念しながら、心を対象に結び付けるという、両方が同時にあることが必須と思われます。
釈尊は、この三つを実践されました。

六根とはゲンニビゼツシンイ眼耳鼻舌身意のことです。
眼意、耳意、鼻意、舌意、身意、意根意というように、それぞれの器官に意(心のはたらき)が存在すると考えられていました。
意根意というのは五器官が一箇所にまとまる根に相当する意で、何れの意が働いても同時に働く意とされていました。
以上の六根はつねに煩悩に汚されるので、苦行では、目で見て煩悩がおきるであれば目の意に原因があると考えて太陽を見つめて目を焼きました。
身体が触れて煩悩が起こるのであれば、身体の意に原因があると考えて、茨の中に身体を横たえました。
このように眼耳鼻舌身に直接苦痛を与えるタパス苦行を行っていたのです。
 意(イ)と心(シン)
意は梵語でマナスといいますが、現在ではシッタ(心(シン))と同義と思われています。
日本語はココロですので、心という漢字を、シンともココロとも読みます。
ここにも、真意をわからなくしている原因がありそうです。

心というと、トランプのハートの形を思い浮かべて
心(ハート)は胸の中に収まっているような気持ちになります。
心を心臓と結び付けて考えるルーツは、エジプトに遡ります。
エジプト死者の書には、死者が審判の部屋に入れられて、そこで、ポロリと抜けた心臓と、マアトトの羽毛を天秤にかけて、重さを比べる事が書かれています。
羽毛よりも軽い心であれば、天に上り、重ければ地獄に落ちるのでしょう。
心臓は生前の心の象徴だったのです。

アレクサンドロス大王が、BC334頃に、インドに侵入しました。そのときに心(シン)をハート心臓の形として絵や形に表わしたものが持ち込まれ、インドにも影響を与えました。
ハート心臓の形をとって現れる心として、肉団心という言葉が現れたのも、密教の時代(七世紀頃)と言われています。
したがって釈尊の時代にはまだマナス(意)が、ハート型のシッタ(心)だというイメージは無く、六つの器官(六根)の働きと考えていたのです。

般若心経は、鳩摩羅什(クマラジュウ)(350-409頃)が最初に訳しましたが、西遊記でお馴染みの玄奘(ゲンジョウ)三蔵法師(602-664)の訳も有名です。
般若心経という経名は始めから原典にあったわけではなく、原文の結びに「般若波羅蜜多のフリダヤ心髄おわる」とあるのを、漢訳者が冒頭にもってきて題名にしました。
般若心経のシン心は梵語でフリダヤですが、フリダヤは「心髄」とか「この物の心臓部」などというように、最も重要な部分という意味でした。

☆心髄に宿る真我

フリダヤ(心髄)を尊ぶ思想は、バラモン僧侶のヴェエダ聖典に伝承されたもので、もしも命の根源であるフリダヤに梵天の神と同等の我すなわちアートマン(真我)が宿れば不老不死になれる大切な場所と考えられていました。

釈尊は、父のシュット・ダーナー国王から、出家を思いとどまるように言われたときに「病気もしない、年もとらない、死ぬこともない、これらを保証してくれるならば、城を出ないと約束しましょう」といって父を困らせたのは、アートマンを獲得すれば生老病死を解決できると思ったからかも知れません。
これは、釈尊が幼少の頃より、家庭教師であるバラモン僧侶の師から、フリダヤに梵天と一如になれるアートマンを獲得することが人間としての最高の価値であり、そんな我を獲得できれば、その証しとして永遠不滅となり生老病死からのがれられると教えられていたからです。

釈尊は周囲の反対を押し切って出家に至りましたが、当初は苦行に依って、梵我一如になれるアートマンを獲得できるものと信じていました。
しかしネーランジャラー河のほとり辺で数年間苦行をしたものの、身体は痩せ衰えていくばかりで、一向に梵我一如を獲得出来るという予感さえ得られませんでした。
或時、ふとアートマンは錯覚的観念の産物ではないだろうかとひらめきました。
「身体も六根も生きている限りのもので恒常(永久不変)である筈が無い。
とすれば永遠恒常といわれるアートマンとは相反するものである。
したがって、生きてフリダヤにアートマンを獲得できれば永遠不滅になれるというのは頭によって作りだされた錯覚的産物ではないだろうか」と気がつきました。

釈尊が苦行をしていた時に「弦の音は、強く絞めれば糸は切れ」という歌声を聞き、村長の娘スジャータに乳粥を布施された時に、
心や体を張り詰めていては、命の糸が切れてしまうと気がつき苦行をやめました。
心と身体は相互に作用していますから、身体を整えることは心を整えることにもなります。

☆釈尊の悟り

修行を始めてから六年の歳月ののち、苦行をやめ制縛(ヨーガ)と陶冶(ドヤナ)(禅)によって修行を続けていた釈尊は一つの悟りを得ることができました。
それは(魂が)肉体から離脱して宇宙と一体になる体験でした。
この時、下方に禅定している自己の姿が次第に遠ざかるのを観て、「肉体の眼を使わずに見下しているこの存在」これこそ真の我であり、これが永久不滅な存在といわれるアートマンではないかと直感したのです。
このアートマンが、本当の我(真我)であって、肉体は本当の自分では無いと悟ったのです。
そしてこれが梵我一如の悟りでもあったのです。

☆五蘊無常無我

釈尊がブッダ(真理をさとった人)となられた後サールナートにおいて、同じ釈迦族出身の五人の仲間に初めて法を説いたのがシタイ四諦、ゴウン五蘊、非我説、といわれています。

非我説
「修行僧らよ、ありとあらゆる物質的なかたち、即ち過去現在未来の内であろうと外であろうと、粗であろうと微細であろうと、すべての物質的なかたちは――これは我が物ではない、これは我ではないと――このように、正しい叡智によって観察すべきなのだ」(サンユッタ ニカーヤ)
体は自分では無いし本質でもない。形は全て本質ではない。
永久不滅なアートマン(真我)は物質的な形を取ることはない。

五蘊無常無我
釈尊が、鹿野(ろくや)苑(おん)において繰返し説いたのは、「現象的な我を作り出している五蘊の働きに於いては、
恒常も真我も存在しない」という五蘊無常無我でした。
つまり、色や形等の具体的な感覚として、そこに有ると思っているもの、見ていると思っているもの、有ると思っているもの、触っていると思っているもの、知っていると思っているもの、一切が五蘊の働きで作りだされたものであって、実在しているものとは懸け離れたものだということです。

動物は足を持ち身体を素早く動かす必要性から眼耳鼻舌身を与えられました。
しかし肉体の五管を使わずに知ることもできる筈です。植物にはその能力があるようです。
震災の前日には、ネズミがいなくなったという話を聞きます。人とは違った感受性があるのでしょう。

 

☆釈尊のためらい

釈尊は肉体から離脱したときに梵天一如となりました。梵天(ブラフマン)の波動と同調し、梵天から「人々の為に、ここで悟ったことを説くように」とすすめられました。
始めはためらいました。その理由は「むさぼ貪りといかり瞋に悩まされた人々が、この法をさとることは容易ではない。この法は世の流れに逆らい、至微であり、深遠で見がたく、細微であるから欲に執着しアンコク闇黒にオオ覆われた者は見ることはできない。」(ゴータマ・ブッダ)と思ったからでした。
つまり「欲に執着するものは悟ることができない」
「執着を無くすことのできる人が何人もいるとは思えない、だから、私の悟りも解って貰える筈が無い」というのでした。

☆行(サンカーラ)

人には五蘊という感受作用があって、それによって様々な我が生じてくることを釈尊は発見しました。
人間の肉体を因として生じる精神作用を、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の五つに分けて示したのが五蘊です。蘊とは目に見えない働きをいいます。
五とは、色(ルーパ)・受(ベーダナ)・サンニャ想・行(サンカーラ)・識(ビニヤーナ)のことです。
色(ルーパ)とは眼耳鼻舌身に受ける内外環境の刺激。
受(ベーダナ)とはその刺激を受けて感じること。
サンニャ想とは、その感じが、生命活動に良いか悪いかで、取捨を判断すること。
識(ビニヤーナ)とは、行(サンカーラ)の働いた後の、意識や認識のことで、経験その他で得た知識。
行(サンカーラ)最後に残した行とは、言葉を持った人間だけが持っている精神作用のこと。
行(サンカーラ)の作用は識として認識に出る前の、潜在意識の働きであり、釈尊が初めて到達した観念です。
しかし、これを言い表す言葉がなかった為、作り出されたものという意味のサンカーラという言葉をあてました。
例えば腹を立てやすい人が、腹を立てるのをやめようと思っても理性では立腹を抑えることが出来ないことがあります。
このように、やめようと思っても意に反して思い通りには、なかなかならない、このような潜在意識の働きを行と表しました。
サンカーラはコウ行と漢字で訳された結果、人間の行動という意味に間違って捉えられている場合が多いのです。
蘊とは、スカンダーの訳語で「寄り集まった働き」ですから、サンカーラも精神作用の集まりのひとつでなければおかしいのです。
ちなみに、ギョウジンハンニャハラミタジ行深般若波羅蜜多時のギョウ行は、チャリヤーム・チャラマーノの訳ですから、行を行じている、つまり行動するという意味になります。
サンスクリット語 (梵語)を漢語に訳したとき、サンカーラに行という漢字をあてたとき、外に適当な言葉が漢民族には無かったのでしょう。
しかし 行(サンカーラ)という訳語はそれ程悪いとは思えません。
人の行動を考えてみると、色々な情報が眼耳鼻舌身の五管を通じて入ってきますが、その都度興味の有無とか信念、欲望からくる価値観の違いによって、どの方向に思いが向くかが潜在意識的にサンカ-ラ行で決まるのです。
「行は行く方向がここできまる」という意味に取ってもよいのです。
行(サンカーラ)を挟んだ想(サンニャ)と識(ビニヤーナ)の違いは何かというと、想は全体をとらえています。識は分割してとらえています。つまり、全体の想から何を取り出し、意識に上がらせるのか、これが行の作用なのです。

☆五蘊は感受したものを認識にだす働き

この図は釈尊が精神作用を考察した結果、発見した五蘊の考え方を示します。
画像の説明

増幅器(アンプ)の回路では、出力の信号の一部を前段に戻して加えることを、フイードバックといいます。
増幅器では、明瞭な音を出すために負のフイードバックをかけますが、もし正のフイードバックをかけた場合には出力は前より大きくなり、それがまたフイードバックされることで、どんどん大きくなり、しまいには発振という現象が生じてしまいます。
何度も同じことをくり返して考えることは、識を再び行にもどすことであり、最初の小さな情報がどんどん大きくなっていく正のフイードバック作用に似ています。
興奮とか心配とか後悔の念が頭の中で何回もくり返すことがあると、いつのまにかその観念で頭の中がいっぱいになり止められなくなります。そんな作用のことです。

☆五蘊盛苦

つまり ゴウンジョウク五蘊盛苦 とは、欲望や観念の満足を求めてくり返し考えることで、盛んに五蘊が働き、これが苦の原因になると言うことです。
しかし良く考えると、五蘊が盛んに働き回ることが、必ずしも苦とは限りません。
歓喜の為にも五蘊は活性に働きます。
本来生物の機能は、生命をよりよく保つために全力をつくすものですから、それが、生命の向上につながる時には苦を感じません。
ところが、潜在意識に抱えている執着や欲望を満足させる方向にサンカ-ラ行が働いているときには、心は苦を感じてしまうので、釈尊は五蘊盛苦と説いたのでした。
要は、執着や欲望の為に五蘊が盛んに働きまわるときに、我々の心はそれを苦と感じてしまい、執着や欲望が少なくなるほど、苦と感じる度合が、比例的に小さくなるという事実です。
動物は、人間のように発達した言葉によって作り出される行(サンカーラ)のフイードバックが有りません。
つまり、過去を後悔したり、未来を心配したりはしないのです。
動物はまた、必要無いものまでは欲しがりません。人のような欲望は無いからです。
なので、感受性が高いのです。
動物は環境の刺激にどう対処するか?その選択は、持っている感受性によって、自然になされるのです。
例えば、鮭が太平洋を黒潮に乗って回遊し、生まれ故郷の川に自然に帰還できるのも、
渡り鳥が、道も目印も無い大海をわたって、同じ場所に帰りつけるのも、
素直な感受性にもとづく天命から外れない行動なのでしょう。

☆五蘊を知り、自分に教え返す

天然自然の心をキャッチできる感受性は、人間も持ち合わせているはずですが、言葉によってつくりだされた観念(行(サンカーラ))が、欲望によってジョウ盛になるときには、感受性は素直に表れません。
釈尊はこのことに気がつき、五蘊を知り自分に教え返して、真実のものと錯覚のものと感じ分ける能力を回復させなさいと次のように言われたのです。
ワヤダムマーサンカーラ、
人の生命体が真理にかなう判断を出すサンカーラになること。
アパマーデーナー・サンパデーター
自分の好みに耽ることなく、自分の感受性を鍛練することに、方向性を定めなさい。

これは釈尊が入滅間際に語った言葉でもあり、弟子達に念を押したかった一言でした。
(行(サンカーラ))で、観念を作り出す。これを敷衍していくと、人の思いの全ては、喜びも悲しみも、怒りも恐れも自分自身が作り出したことになると。この真理に行き着いたのです。

☆四諦

釈尊は五蘊盛苦と説きました。苦は実際にあるものではなく、作り出されたもの。
このことを四諦(したい)という言葉でも説いています。諦(たい) とは真理のことで、四つの真理という意味です。
苦諦 、集諦 、滅諦 、道諦 の総称です。
一 苦諦 苦の事実は、愛しあう者が別離する苦 ( 愛別離苦 )。
憎みあう同士が一緒に暮らさねばならぬ 苦(怨憎会苦 )。
求めるものが得られぬ苦(求不得苦 )。
これらは生老病死の言葉に抽象されています。
しかしこれらは苦の原因ではなく、原因は心の在り方にあります。
つまり五蘊の盛んな働きが苦の原因です(五蘊盛苦)。
二 集諦 五蘊の盛によって、物質欲 金銭欲 地位欲 名誉欲 所有欲 独占欲 等の苦しみが色々集まってきます。
三 減諦 人は、苦しみが集まり重なってくると、それを滅する方法を求めます。
四 道諦 其の方法としてサンカ-ラ行の認識と八正道の実践があるのです。
八正道とは、正(ショウ)見(ケン)(正しい見解)。正思(ショウシ)(正しい思惟)。正語(ショウゴ)(正しい言葉)。正業(ショウゴウ)(正しい行い)。
正(ショウ)命(ミョウ)(正しい生活)。正精進(ショウショウジン)(正しい努力)。正念(ショウネン)(正しい心の落ち着き)。正定(ショウジョウ)(正しい精神統一)のこと。正念には陶冶(ドヤナ)=禅、正定には制縛(ヨーガ)という行があります。

☆苦の原因

一般には、生老病死に抽象される苦の現象が苦の原因であり、それで苦しむのは誰もが同じく当然の事と疑問さえ持ちません。
しかし釈尊の悟りは、生老病死……等は、苦の原因では無く苦の状態の現象(苦諦(くたい))であり、我々がそれを苦と感じて悩むのは、人間の行(サンカーラ)の在り方だと解ったのです。
その証拠に、生老病死の苦の状態はあらゆる生物に存在するけれど、それを苦に病んでいるのは豊富な言葉を持つ人間だけなのです。
人間だけが苦と感じ、様々な願望や欲望を起こし五蘊を盛んに働かせています。
欲求が強い程、欲求不満から生じる苦(煩悩)が強くあらわれます。
欲求不満は他人との比較や羨望、優越感や劣等感から生じます。
自分と他人との分離感が元になっています。
動物には、苦の状態はあっても、苦の悩みはありません。
ライオンは子供たちを育て上げた後、何処かへ去っていきます。
年とって餌を取れなくなったら子供たちに面倒を見てもらおうなどとは思いません。
ところが、人の場合は、少し違ってきます。
君に忠、親に孝という儒教の影響もあります。
弘法大師空海(774―835)は、その当時に重んじられていた、人としての道、仁義礼智信の五常と、忠孝の道義から外れるような出家は正しい生き方ではないといった風習によって、自分の心はしばられたと三教指帰(さんごうしいき)の中でかえりみています。
空海は、満二十四歳のときに三教指帰を書きました。これは儒教と道教と仏教の思想の特質をあげて、やはり仏教が最も優れた教えであるという思いを明らかにしたもので、出家の宣言書ともいわれます。
現代の社会生活でも、倫理、道徳などの儒教で言うところの人の道に外れることは、罪悪感のようなしこりとなって人を縛り付けます。
倫理、道徳の面から考えると、釈尊は、シャカ国の王子の跡継ぎとしての父の期待を裏切り、息子のラーフラが生まれたその日に、親も妻子も捨てて出家してしまうのですから、外れていることになります。
釈尊の教えは、何々が当然というような凝り固まった考え方とか、古い宗教観とか、カーストという身分制度で縛られている人達の苦しさや、とらわれのココロを解すことでした。

☆欲、執着

メッタグーさんが釈尊にたずねました。
「世の中にある種々様々な苦しみは、どこから現れるのですか」
「私の知ることを説きましょう。世の中にある様々な苦しみは、執着を縁として生起するのです。
「知ることの無いまま執着をつくる人は愚鈍です。繰返し苦しみに近づきます。だから知ることが大切なのです」。
「苦しみの、生起の元である執着をつくってはいけません。」(ブッダのことば、スッタニパータ)
「あのときに、こうだったらなー」そんな後悔の念で頭の中がいっぱいになり、離れない日が続いたとしても、月日はそれを癒してくれます。
後になれば、あきらめがつくのですから、最初から悔やまなければいいと思うのです。
大切なものだから(執着)という考え方は、八正道にはありません。
幼児に見習う事があります。「今泣いたカラスが、もう笑った」と、からかわれる程に早い心の切り替わりで。

☆欲動のエネルギーと、向上性の意のエネルギー

人間のあらゆる行為の原動力には、欲望がつきまとっていると言われています。
もしも欲望が消失すれば、やる気が無くなってしまうだろうと思われている程、抜きがたいこの欲望のエネルギーですが、人間はこれだけで動いているのでしょうか。
現代に生きる人々の前には次々と、欲しくなるような新製品が産み出され、欲望をそそるようなコピーが次々と入ってきます。
それで欲しがっていれば、必要以上に欲望がふくらんでしまいます。
財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲等が旺盛なことを、本能と言う人がいます。
でも本能とは、動物のそれらを観察すればわかるように、自然に制約された秩序あるものです。
したがって「本能的」とは、本来は天然自然に従う事が出来る感性の良さと取るべきでしょう。
行(サンカーラ)によって膨らました欲望を本能のせいと勘違いしているのです。
欲とカンの関係は、両テンビン天秤にかけた関係にあって、「欲に眼が眩む」というように、欲を出したときには冷静な判断が出来なくなっています。
人間には、欲動のエネルギーだけではなく、向上性の意のエネルギーがあります。
釈尊は、ピパラ(菩提樹)の大木の下で今までの人生を反省する禅定をしていたときに、パピアス・マラー(悪魔の名前)の誘惑がありました。
しかし、この誘惑に勝てたのは、釈尊の向上性のエネルギーが欲のエネルギーよりも遥かに上回っていたので、悪魔と見破るカンが働いたのです。
意欲から欲が取れたのは、強力な向上性の意を持ちつづけたからであり、欲が減少するにしたがって感受性は冴えてきます。
真の感受性は天と繋がった情報を得られることです。

釈尊は、三十五才で悟りを開き天眼通が生じました。

釈尊は、この悟りを誰に説いたらいいだろうかと考えたとき、始めアララ・カラマ仙人を思い浮かべましたが、この方は既にこの世にはないと天眼通によって解りました。
一緒に修行した懐かしい五人の仲間を思い浮かべたときに、彼等はベナレス(バーラーナシ)の郊外にある鹿野(ロクヤ)苑(オン)に移って修行を続けていると知り、その地へまっすぐに向いました。
苦行を止めたことに反対して、別れていった仲間たちに会うためでした。

☆色とエネルギーについて

色(ルーパ)は、物質、物質的現象のことをいいます。
物質的現象の特質として、古来には、ヘンネ変壊セツゲ質礙の義ありといわれていました。
変壊(ヘンネ)とは絶えず変化して一瞬も恒常でないこと。
質礙(セツゲ)とは物質が同時に同じ処を占有できないことをいいます。
色(ルーパ)は色(イロ)とも読むように、見えるものという意味です。
では見えるものとはどのくらいの大きさでしょうか、今の科学ではトンネル電子顕微鏡によって、金属の表面の原子配列ぐらいまでは撮影できるけれど、それ以下は見ることはできません。
その原子も、周囲が薄い雲のようにしか見えません。
これは、原子核の周囲を電子が秒速千㎞で軌道を変化させながら、一秒間に百兆回もまわっているので雲のように見えるとのことです。
原子の構造は、かりに原子核の大きさが太陽の大きさだとすると、地球よりも小さい電子が、冥王星の軌道よりも広い空間を飛び回っているような状態です。
しかも原子内部は、真空で占められていますから、まるで宇宙そのもののミクロ版です。
と、このような仮説が立てられていますが、原子内部は未来に於いても絶対に覗けない世界です。
そんな理由から、原子以上が色(ルーパ)と区分けすることもできます。
原子を構成している各要素のことを素粒子といいますが、素粒子は物質の性質とは全く異なっていて、エネルギーと呼ぶべき性質をしています。
だから素粒子の質量に関しては、質量の単位である㌘を使わずに、エネルギーの単位
eV(エレクトロンボルト)やJ(ジュール)であらわします。
私たちは、粒子の大きさが小さければエネルギーも小さいと考えがちですが、大きさには意味がありません。例えば光の粒子は、同じ粒(光量)でも、赤外線とガンマー線ではエネルギーの差は一億倍もあります。
また一㌘の質量が消滅すると、どのくらいのエネルギーに変わるのでしょう。
原爆が発明されるモチベーションとなった、
E=MC²というアインシュタインの法則で計算してみましょう。
Mは質量で単位はkg Cは光速で単位はm/sec Eはエネルギーで単位はJ(ジュール)
(1×〖10〗^(-3))×(3×〖10〗^8)×(3×〖10〗^8)=9×〖10〗^13J
ジユールの単位は1秒間当りですから
これを1時間当たりの単位に直すために3600秒で割ると25×〖10〗^9Wになります。kwの単位に直すと25×〖10〗^6kwです。僅か一㌘の質量で、ロスを考えなければ二千五百万kwの電力を一時間も供給できる計算になります。
私達は、物質が見えて、触れることができるために、物質の世界に住んでいるように思い込んでいます。
しかし考え方を変えると、宇宙は、眼に見えないエネルギーが作用していて、これこそが主体であると気がつきます。
例えば、宇宙は拡がろうとする力と、縮まろうとする力とのバランスで存在しています。
惑星系は、恒星の引力と惑星の遠心力とのバランスで軌道を保っています。
原子もまた、核力と遠心力、電磁力などの力のバランスで存在しています。
神道でいうならば、宇宙は、動、静、解、凝、引、弛、合、分の八つの力で出来上がっているということです。
もしもこれら万物を形成し、秩序を保つために作用していた力が無くったとしたらどうでしょうか。星も原子も素粒子も、全くの超微粒子(清浄)になる迄ほぐれて消滅し、宇宙はなにも無い真空なってしまいます。
物質世界といっても本来はエネルギーが主体であって、物質とはエネルギーのひとつの形態なのです。

☆釈尊の「五蘊皆空」の体験

釈尊の「五蘊皆空」の体験は(人間釈迦①高橋信次著)に次のように書かれています 。
ふと、自分に気が付くと、座している己の体が、次第に大きくなるのであった。
ゴータマ(釈尊の名)を雨露から守っていたピパラ(菩提樹)の大木を抜けて、ガヤ・ダナが眼下に見えてくるのであった。
ゴータマの意識は刻々と拡大していった。
地上が次第に遠のいていく。
単に遠のいていくというのではなく、その地上が身近に感じながら、遠のいていくのであった。
いうなれば距離の遠近ではなく、現実の拡大なのである。
己の意識が地上から離れていきながら、それでいてピパラの木も、ウルヴェラも、ガヤ・ダナも、現実の感覚と少しも変わらず、スグ目の前にあるという感じである。
意識の拡大はテンポを早めた。暁の明星が足下に見えた。
もう一人のゴータマは小さな粒のようにはるか下方に座していた。
ゴータマは、宇宙大にひろがり、宇宙が自分の意識の中に入っていくのだった。
全ヨジャーナー(三千大世界)が、美しい星とともに、ゴータマの眼前に、くりひろげられているのであった。
何もかも美しい。生命の躍動が、手にとるように感じられてくる。
あの森も、あの河も、町も、地球も、明星も、天体の星々も、神の偉大なる意志の下に、息づいている。
まるで光明に満ちた大パノラマを見ているようであった。
見ているようでいながら、ゴータマの肌に、生きとし生けるものの呼吸が、ジカに感じられてくる。大パノラマは、そのまま、ゴータマの意識のなかで、動いているのであった。遂に悟りをひらいた。

☆五蘊皆空とは

「五蘊皆空」とは何か?
色や形等の具体的な感覚として、そこに有ると思っているもの、見ていると思っているもの、有ると思っているもの、触っていると思っているもの、知っているとおもっているもの、一切が五蘊の働きで作りだされたものであって、実在しているものとは懸け離れたものだということを、意識が宇宙大に拡大していった体験から実感として釈尊が得た答でした。
五蘊を空にして、一切の苦厄を制することができました。
五蘊とは、肉体の五根に基づく精神作用のことです。
真我(魂)の体験時には、体(色)は空(カラ)になっていました。
釈尊の「十方無限世界、即ち我の身体なり」(宇宙は私自身である)というサトリは、
普遍意識の表れですから、五蘊の意識では、理解できない言葉です。
人は、自分と他人とは別の存在であると信じ込んでいます。これが分離意識です。
1万年もの太古の昔、多くの人たちは普遍意識を顕現していたように思います。
これは、カタカムナ文字や唄、その内容などから、十分に感受性の濃さを感じ取ることができるから、そう思えるのです。普遍意識は、当然調和の世界をもたらしていました。
日本人の和の精神は、この時代のエネルギーが集合意識の中に残っているからと思います。
何故なのか、何時の時代からか分りませんが、人々は分離意識を持つようになって、次第に普遍意識を喪失してしまいました。
それは、世を渡る上に智を働かせることが大切になり、左脳の働きへ偏ってしまったことにありました。
左脳の出血という自身の体験から左脳と右脳の働きを明確にしてくれたのがジルボルトテイラー博士は、右脳と左脳の働きを明確にしてくれました。博士は、右脳の働きをこう説明しています。
「情報はエネルギーの形をとって、全ての感覚システム(眼耳鼻舌身)から同時に一気に流れ込み、この現在の瞬間が、どのように見え、どのように匂い、どうゆう味がし、どんな感触があって、どう聞こえるか、巨大なコラージュになってあらわれます。
右脳の意識を通して見ると、自分を取り巻く全てのエネルギーとつながった存在なのです」。
「私たちの存在は、互いにつながっているエネルギー的存在です」と。
ちなみに、魂合気の技の基本は、気というエネルギーでの人とのつながりですから、博士の言葉は、魂合気の原理の論証でもあると思いました。
左脳については
「左脳は、現在の瞬間を表す巨大なコラージュから、詳細を拾いだし、その詳細の中からさらに詳細を拾いだします。そしてその情報を、これまでに知った過去の全てと結びつけて、将来どうなるか、色々な可能性を考えます。左脳は言語で考えます」と。
この個所は、釈尊の発見した、五蘊の行の働きと同じです。
「左脳が、私がと言ったとたんに、私は一人の確固たる個人となり、周りのエネルギーの流れから離れ、周りとのつながりから切り離されるのです」
このように、左脳を働かせるのと、右脳を働かせるのでは、全く世界がちがいます。
沢庵禅師は、右脳左脳の働きとは、知らなかったでしょうが、同じ内容のことを、「不動智神妙録」に書き表しています。書の題名に表されているように、智(すなわち左脳)を動かさなければ、不思議な神の妙が現れるということです。
左脳の働きは、新しく外界から入ってきた情報を、過去の経験に参照して、新たな主観的な意味を生みだします。これは行(サンカーラ)の働きと同じです。このような左脳の働きが有る限りは、百人百様の捉え方をするのであって、これゆえに「つくりだされたもの」という意味合いのサンカーラに行を充てた意味も納得できます。
このような意識では、分離の生じていない本来の精妙な普遍意識は、潜在意識の奥底に埋もれたままになっています。
分離意識は、人の魂が地球上での特殊な経験を得るという当初の目的があってのことでしたから、これに限ってみれば、成果を収めたことになります。
ところが、地球上での体験を完了し、本来の普遍意識の状態に還っていく、地球生命系の卒業の段階
となった今、長い歳月にわたって培った分離感が大きな障壁になり、このままの意識では卒業できないことになります。
幽界にある霊魂も、自他という分離意識を持っている限りは幽界に留まることになり、地球意識の転換の流れに乗れずに消滅という結果になります。

☆気について

ところで、身体を動かす為に、身体各部へ伝達する仕組みについて、
大概の人は、大脳からの司令が、電気信号として神経を経由して筋肉細胞に伝達すると思っています。
しかしそれで、身体が正確に動くでしょうか、
神経系で伝達したとすれば0・何秒という単位とはいえ時間がかかります。時間差も生じます。
これでは身体は正確には動けません。
正確に動くには、身体各部に微細に光速度で司令が伝達しなければならないはずです。
したがって、脳からの司令が神経細胞を経由して伝わる考え方は理にかないません。
それでは、どうやって伝わるかといえば、気によって伝播するのです。
このことは、魂合気で、相手は離れていても、こちらの心とシンクロして動くことからも分かります。
気で相手が動いてくれる事がわかれば、自分を動かすのも気だと気がつきます。
気であれば身体各部同時に伝達できます。また精妙に伝達することもでます。
ちなみに、神経の働きというのは、五管の感じた結果を脳に伝える片道、往路だけしかありません。
脳から手足へといった、伝達方向の神経系は存在していないのです。
運動神経系の細胞は筋肉から上向し、脊椎にて下向する神経と連結しています。
つまり運動神経においては、この回路は、電気回路でいうフイードバックであり、筋肉の運動量を制御するために必要なものです。
したがってこれが脳からの指令を伝える機能とは考えられません。
記憶もすべて、脳に記憶されているわけではありません。脳には、有る期間しか記憶して置くことしかできません。有る期間を経過したものは、魂にしか記憶が残りません。ただし魂に残るのは体験されたものだけです。
大脳生理学では海馬とその周辺が記憶の保存場所と言われていますが、海馬の機能は、魂にある記憶の出し入れ機能(インターフェイス)と考えたほうが理にかないます。
脳も変壊質礙(ヘンネセツゲ)の例外ではありませんから、脳での記憶は覚えた時点から崩れていくのです。
名前など覚えが、記憶に残りにくいのはこのためです。

☆和(やわらぐ)について

聖徳太子が作られた17条の憲法の最初に書かれている言葉が、「和(やわらぐ)をもって貴(とうとし)と為し、忤(さから)ふること無きを宗(むね)とせよ」です。
さからうなと言ったって無理な話と思うかも知れません。忤(さから)ふるというのは、分離意識ですから、和(やわらぐ)とは正反対の言葉です。
しかし古代の人たちには、もっとも大切な、この第一条は納得できることだったと思います。
和(やわらぐ)というのは、まずは自分自身が和ぐこと、これが第一です。
自分自身が和ぐことで、相手はどうあろうと、人とつながります。
ちなみに魂合気は、自他という分離意識を出すと合気は利かなくなります。
つながりが技を成り立たせているからです。
優しさと、丁寧さ、素直さ、あるいは澄んだ心の状態にあれば、人と触れていなくても、
離れていても、つながっています。
つながっているのが当然と知れば(知ればという言葉は、古代には体験するという意味で使われていました)、人間は本来分離していないと納得できます。
分離していなければ、忤(さから)ふる気持ちも起きません。
和らぐには、身体もこころも、ゆだねるという感覚を知るのが早いように思います。
ゆだねるから、やわらげるのです。
この状態にあれば、自身を大切に思うように、つながっている相手も自身ですから、おのずと大切に思えるので、忤(さからう)気持ちが無くなります。
ちなみに、梵天の神と同等の我すなわちアートマン(真我)を持っているならば、(真理という信念を持っていれば)、人の意見、行いや、しきたり、行事などが、真理と違うと思っていても、忤ずに和(やわら)いだ気持で行うことも余裕で出来ると思います。
古代人が、和(やわらぐ)ことを大切にしていたことは、和(やわらぐ)と同じ意味の、ねぎが神事にも使われていたことからも解ります。
禰宜(ねぎ)という神官の役職がありますが、ねぎとは、神様に和いでいただくことです。
ねぎことが願いことと言葉の変化がありましたが、日照りや豪雨や時化が和(やわらい)で頂けるようにと、お祀りしたのです。
和(わ)をもって貴(とうとし)と読む人も多いかとおもいます。和顔施という言葉を友達から聞きました。
和らいだ顔を施せという意味です。このように和顔施(わがんせ)と聞いただけでは意味が解りません。
和は呉音ですから、日本の言葉ではないのです。“わ”には輪という日本語の感じがあるので、人は輪になって、手をつないで、まるく収めようという意味合いに感じてしまうのだと思います。
「わいは」(私は)と言う言葉があります。「わい」とは、乱(みだれる)という意味で、賄賂、歪曲、わいせつなどの言葉のように、輪という感じを乱(みだし)ています。
「我々は」などという言葉も、輪をこわします。われわれ(割れ、割れ)ですから。
自我を主張しているのですから、人の意見は聞きません。今の国会で行われる討論も、まさに忤ふる意見の花盛りです。
このように、“わ”は、人と人とが輪になってという意味にとらえられています。
Peaceなどは、これに近い概念とは思いますが、世界平和の概念は「戦争がなくなり、世の中が安穏でありますように」は、自分の外を変えようという思いですが、これは分離意識です。
まずは自分自身が和ぐこと、これが和(やわらぐ)をもって貴しと為すという意味です。
照見五蘊皆空は、釈尊が「梵天一如」状態で照見したさとりでした。
この解釈で、般若心経は理解出来るし、筋も通ります。

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