誇るべき日本文化、その諸能の原点を知る

合気は愛気

合気は愛気

書籍の第4章の補足といったところです。
合気は愛気」といったのは、植芝盛平師ですが、それ以前の武術家で、武術は愛と言った人は居なかったと思います。
なぜならば、愛と言う言葉は、昔は単に「非常に好む事とか、かわいらしい」といった意味だったのです。それと仏教の普及と共に、愛は、愛欲、愛着、といった迷いの根元として否定的に見られていました。
そんな中で聖書の中のloveを、最初に誰かが「愛」と訳したことに疑問に思ったことがあります。この言葉は仏教のように、「慈しみ」と訳せばよかったのではないかと思いました。
慈しみであれば非常にスッキリと解るのですが、愛と訳したために、「恋」とか「非常に好き」といった思念にとらわれて、心の葛藤が生じる原因にもなるのではないでしょうか。
戦前の日本は、儒教の教えを基本とした道徳的社会でしたから、聖書の中にある「隣人を愛せ」といった言葉にさえ、なにか不倫的な後ろめたさを感じたようです。
というわけで、江戸時代や明治の武術家は、愛という言葉は使わなかったと思うのです。多くの武術家は、武術で自ら到達した境地を、神道あるいは、仏教的な言葉を借りて表現していますが、究極的には「武術とは戦わずして勝つ、刀は抜かぬもの」と、いったところに達しました。
しかし、この本意は、そこに達した人でなければ、理解が難しい境地とされました。
話は変わりますが、自然界には毒があります。もしも毒がなければ、人も動物達も注意力散漫になりますから、そんなところに、もしも毒(敵)が出てきたら簡単にやられて滅びてしまいます。
世界中で平和的な国家や部族が滅びてしまった歴史もこれです。
蜂の世界では、針が武器で、その武器を使った蜂も命が尽きる。そういった厳しさを自然界は教えてくれています。毒の武器を使うこと自体が、諸刃の剣なのです。
日本の武の悟りというのは、「剣、鏡、玉の三種の神器を奉じて、宇宙の理を悟って神人合一で、武を興す」と言ったところが代表的ですが、この剣は、スサノウ命が、八俣の大蛇を退治したときに、大蛇の体内から出てきたツムガリの太刀(天の叢雲の太刀とも言いますが、後にスサノウの娘のスセリヒメとむすばれたオオナムヂ命が、この太刀で命拾いしたという話が元で草薙の太刀という名がついたの)です。
スサノウ命は、大蛇と闘わなければ、村人も救えず、クシナダヒメを妻にすることも出来なかったわけで、私たちが知るストーリーも無かったわけです。
神話にも戦いの話しが、たくさんありますが、皮肉なことに、この生と死に直接関わる武術を通じてのほうが、仏道の人たちよりも、心のさとりに達する人が多かったようです。毒の功罪でしょうか、人から見れば、厳しい状況といった中から転換して新しいものが生まれるのです。スサノウ命もオオナムヂ命も、このようなことが溢れた人生でした。
これは、カリスマ性を養うためには大切で、カタカムナでいうとアワ性を養うために大切なのです。
武術の中で、合気も柔術も、(剣術の行き着いた先でも)相手がかかってきた場合の対応に重きを置いていて、此方からは仕掛けないところが、日本の防衛システムに似ています。
魂合気の技が利くには、身体のこなし、自然を追求した体の動きが大切です。それと「やつける」とかいった類の思いをなくすことです。
合気には、先に仕掛ける稽古がないのは、此方から仕掛ける行為は、「やつける」という自我が出やすいからなのです。
自我を出せば、術は利かないのが魂合気の不思議で面白いところです。自我がでる時ときとは、言うなれば、相手と自分を分ける心です。分けるとは相手を悪いと決めつける、嫌う、怖がる、攻撃するといった心です。それに、これと正反対の心です、正反対の心とは愛ですが、愛ならば利きます。細胞が喜ぶからです。
しかし、愛とは難しい言葉なので、赤玉白玉から次のような神示をピックアップしました。
「神を恋する如く人を愛せよとは真理である。人を愛せないで神は愛せない。なれども人と神とを分けるではない。人は神、このことを忘れるな。神と人を分けるから溝ができる。神と人の分離の始まりじゃなあ。人は神なれども、神は人でもあるぞ。神を通して人を見ても良い。人を通して神を見ても良い。なれども、分け隔てをするではない。人は人に止まらず神と共にあるのであるから、
神が人という衣を着ているのであるから、その中に神を見いだせよ。
神は人、神は人と共にあるのが嬉しいのであるから分け隔てならんなり」

「働きとしての愛、愛そのものは単独では働かぬ。常に二つの働きを伴って働くのである。
その最たる働きが愛と憎しみである。それがどの様にして働くのかといえば、自我があるからである。自我の作用により自分の方に向かせようとする力が内的に働き、様々な形を取って引き寄せようとする。その結果、自らの内的恐怖が形として表面に現れ、顕在化するのである。
恐怖が恐怖を産み、さらに奥深く内在したものとなっておる。なぜならば、愛とは対極の否定というものが顕在化されたものが恐怖であるからである。この結果、自己防衛本能が起こることとなる。
この恐怖を見ずしては、その先に進めぬ為、恐怖が、自身の岩戸開きの鍵となるのである」

このように、愛とは扱いが難しいものです。そこで話はかわりますが、自然の動きとはどんなものでしょう。
一口にいってしまえば、力みの無い動きです。日本の武術の本来はこれでしたが、動きがスポーツ化かしてしまったため、「力を入れて」とか、「スピードをつけて」といった癖がついてしまうのです。そんなスポーツでも「力まないで」とは言いますが、スポーツ的な姿勢を変えない限りは、本当のゆるみができる姿勢とは矛盾していますから不可能なのです。
動きというのは、一意(ヒトツの思い)を成すために動くのが本来ですから、力もスピードも、動きの道筋も、そのマにあった適当であるのが良いのです。
これなら、細胞が喜びます。ところが、スポーツのような余分な動きをして、余計な負担を掛けるような動きは細胞が喜びません。
細胞が、生き生きとして喜ぶ動きこそ、自然な動きなのです。細胞が喜べば、周囲や相手の細胞達も喜びます。だから、相手の細胞も、その一意に共鳴してくれて、力を使わなくても動いてくれるのです。これがムスビです。
とはいっても、スポーツ的な体の動きの癖が身についていますから、ではそうしましょうと思っても、思うとおりにはいきません。なぜならば、一つの言い方をすれば、体は借り物です。自動車教習所に行かないと車が運転できないのと同じように、自分の体も、道理が分かって練習しなければ、良い動きはできないのです。
たとえば「手先の仕事をするな」と、昔から言われます。手先の器用な人は、手先から動いているように見えても、実は体の中心から、肩の動きを通して動いているのです。言い方を変えれば、体の全ての細胞が一致して動きに関わっているのです。魂合気でいうならば、そのときには、細胞が喜んでいますから、そのアカシに相手の細胞も共鳴してくれるので反射的な抵抗が生じないのです。
魂合気で術の利かないもう一つの理由は、腰から動いてしまうこと、足先で蹴って体を運んでしまうこと、体を前後、左右に傾けてしまうこと、これらは、スポーツ的動きの癖であって、自我が伴うことで生まれてくる動きであって、全ての細胞が協調する動きではありません。
合気も柔術も、本来は、相手がどうこようと、素手で防御し対抗できるものであるべきです。そのような早さがあるから術と言えるのです。早さというのは、反射神経ではなく、無駄のない動きによる速さ、あるいは、タメのない早さで相手の動きに対応できるのですが、それだけではなくムスビで、相手の細胞と協調してしまうからマに合うのです。
この速さは、若さには関係ありませんから、講談などでは、老人が若者を手玉にとるといった話が講釈されますが、体力や、気迫などとは、全く関係ないところが面白いのです。術とは一言で言えば自然サ(マノスベ)だけなのです。
今の柔道も合気も、昔のものと、まったく違ったものになっています。
それは、体の日常的な使い方が、変わってしまったために、西洋的な力主体のスポーツになってしまうからです。そのことに指導者が気付いてくれないからです。
昔の柔道は、体を真っ直ぐに立てて相対しました。今のように、前傾姿勢で相対すること自体が、本質を失ってしまった証拠です。では体を真っ直ぐに立てれば、昔の強い柔術ができるかといえば、できないから、姿勢も前傾に変わってしまうのです。できない原因は体の使い方が変わってしまったからなのです。
「柔よく剛を制す」とか「小よく大を制す」という言葉が、死語になってしまいました。
姿勢と、歩き方と、心のあり方を変えれば、「柔よく剛を制す」が現れます。今はその柔のできる人がいないのです。オリンピック一筋では、この教えは真逆であり、マイナーですから、皆がやらないことを学ぼうという人も少ないし、マイナーを教えたい指導者も育たないことに原因があるのです。
「だれか若い人が姿勢を真っ直ぐにした柔術に、素直に取り組んでくれないかな、教えたいです」
柔術も合気も、世界平和の道です。なぜならば、「敵を倒す」といった、思想があっては、本来は術が利かない根本的な理由があるからです。日本古来の武術には、カタカムナの時代から脈付いてきた、アマウツシの法則が含まれています。死ぬまで生き生きと生きられるスベです。


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