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般若心経の解釈

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般若心経の解釈

観自在菩薩 カンジザイボサツ
アヴァローキテーシュヴァラ ボーディサットヴァの音訳。
本来は悟りを求める者という意味です。
これを玄奘(げんじょう)三蔵(さんぞう)は観自在菩薩と訳し、鳩摩羅什(くまらじゅう)は観音菩薩と訳しました。
ここでの観自在菩薩は、弟子の舍利子に話し掛けていることから、釈尊だとわかります。
観自在菩薩は、観ることが自在な境地に達した求道者です。
で、何を観ることが自在かというと過去、現在、未来、及び、過去世、現世、来世の諸現象を天眼で以って観ることができます。
一書(ゴータマ・ブッダ)の中には、次のような体験が書かれています。
「実にこれらの生存者は、身に悪行を為し、言葉に悪行を為し、心に悪行を為し、諸々の聖者をそしり誤った見解をいだき誤った行為をなす。
彼等は死んだあとで、悪しきところ、堕ちたところ、地獄に生まれる。
また他の生存者は、身に善行を為し、言葉に善行を為し、心に善行を為し、諸々の聖者をそしらず、正しい見解をいだき、正しい行為をなす。
彼等は死んだあとで、善いところ、天の世界に生まれる。
我はかくのごとく、清浄で超人的な天眼を以って、諸々の生存者が死にまた生まれるのを見た」

行深般若波羅蜜多時 ギョウジン ハンニャハラミッタジ
深く般若波羅蜜多を行じし時。
般若は、サンスクリット語でプラジュニヤー、俗語形でパーニャーの訳で、
根源的な叡智、天と繋がった叡智という意味です。全てのものごとを、正しく知る真実の智慧で、さとりに於いて大切な要素です。普通にいう判断能力としての分別知ヴィジュニャーと区別するため般若と音訳のまま用いています。
波羅蜜多はパーラミターの音訳で、波羅は彼岸。蜜多は到ったという意味です。
ここは「叡智の完成に到る道を、深く行じていた時に彼岸に到った」という意味になります。
照見五蘊皆空 ショウケン ゴウンカイクウ
五蘊は梵語でパンチャ スカンダーといい、五つの集まりという意味になります。
「かかる五蘊の身あればこそ、そこばくの煩(わずら)ひ苦しみもあれ」明恵上人。というように、
身と共に在る五蘊がために、煩いも苦しむもあるのだといっています。
一方、釈尊が達した世界は、ブッデイ体とも言われる、波動の部分で共振した世界、つまり空の世界でした。
空の状態で、照らし見た世界は、身体の五管で感じ、五蘊で作り出した自我の世界ではなく、高いヴァイブレーションと、意識体がシンクロして観た世界でした。
このときは肉体の五蘊の働きではありません。つまり肉体の眼ではないのです。
パンチャスカンダース(五蘊)ターシュチャ(等)スヴァバーヴァーハ(性質)シューニヤン(空)パシュヤティ(体得)スマ(した)。
五蘊などの働きが空になる状態を体得しました。
右脳の状態で、静かに広く思念する陶冶(ドヤナ)と、心を対象に結び付けて(短い時間、左脳を働かせる)五蘊を乱さない制縛(ヨーガ)の両方の状態が重なって、慈母観音の懐に抱かれたかのような満ち足りた心、綺麗な心の状態が生まれ、おのずと苦厄からは遠く離れた心になります。
この状態を極めた釈尊は、分離感が消滅し、全てが一体であるという普遍意識の自覚に到りました。
これによって
度一切苦厄 ドイッサイクヤク
「一切の苦悩や厄災(のある世界)から渡ることができました」
度は、渡るという意味で、砂漠を度るとか、水に関係ないところを渡るときにはサンズイを取って度とします。
現存する全ての梵本にはこの“度一切苦厄”に対応する部分がありません。したがって玄奘三蔵が本文には無い言葉を挿入したのであろうといわれています。
舎利子 シャリシ
釈尊の弟子中、知恵第一と言われたサーリープトラの音写。ウパティサともよばれていました。
弟子達の前で、この体験を話されながら「ねえサーリープトラさん」と同意をもとめた状況です。
したがってサーリープトラも、体得されたのでしょう。
色不異空 空不異色 シキフウイクウ クウフウイシキ
色は空に異ならず、空は色に異ならず。
ココロによって働く身体は空の属性であり、分けては考えられません。
この世界の現象が、空の世界に反映され、検証され、出てきた結果が、また現象の世界に反映されます。これが因縁や業(カルマ)であり、このときに因縁や業の貸借対照が反映されます。
色即是空 空即是色 シキソクゼクウ クウソクゼシキ
色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色。色不異空 空不異色と同じ意味です。
ちなみに、空海の般若心経秘鍵に次のようにあります。
「現象世界の眼に見えるもの(色)と、真実世界の(空)の理法とは、本来別々ではありません(不二)。理法に支えられた現象世界(事)と、現象世界に表現される真実の道理(理)とは、元来同じです。現象世界と真実世界の相互(事理)は、ひとつに融け合っているのです」と。
万物は空、色、空、色と循環しつつ変化していると、捉えることもできます。
人の循環を例にとると、輪廻転生という魂の循環があります。
体の内部では、髪、爪、皮膚、筋肉、血液、等々生死は、理に従った循環のサイクルがあります。
さらには、細胞、染色体、ミドコンドリアなどのバクテリア、元素、素粒子などと、小さくなるにつれ、生死の循環のサイクルは早くなります。
それらが重畳して身体は変化していきます。
環境の及ぼす影響(縁)によって、循環にも変化が生じます。
例えば、死も、縁に因る大きな変化です。
受想行識 亦復如是 舎利子 ジュソウギョウシキ ヤクブニョゼ シャリシ
受想行識もまたまたかくの如し。
受想行識とは五蘊のことです。
「そうだよね、舎利子」とまたまた確認の呼び掛けをしています。
是諸法空相 ゼショホウクウソウ
諸(モロモロ)の法則は空の相(アラワレ)にして、空なる無限の力によって、運行しています。
釈尊の宇宙即我の体験の言葉「あの森も、あの河も、町も、地球も、明星も、天体の星々も、神の偉大なる意志の下に、息づいているという実感でした。
空とはなにか。神、真理、生命、霊、エネルギー、摂理、宇宙の法則、など、と捉えてもよいでしょう。
サルヴァ(諸々の)ダルマーハ(法)シューニヤター(空)ラクスァナー(相)
不生不減 不垢不浄 不増不減 フショウフメツ フクフジョウ フゾウフゲン
生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増えず、減せず。
これらは、現象世界(色)の事では無いとわかります。
人には、魄(つまり細胞の魂、身体)と、魂が与えられています。
魂が人の本質であり、本質は物質ではなく空なので、不生不滅、不垢不浄、不増不減なのです。
この後も、しばらくは空の世界を説明する言葉が続きます。
不生不滅―― 生まれず滅せず。釈尊は、悟りに達したときに、過去の生涯を思い出すことができました。魂の本質です。
「かくして、我は種々の過去の生涯を想い起こした。すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、幾多の宇宙生成期、幾多の宇宙破壊期を、
われはそこにおいて、これこれの名であり、これこれの種姓であり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、これこれの死に方をした。そこで死んでから、かしこに生まれたと‥‥」(ゴータマ・ブッダより)
このような気の遠くなるような、転生の経験は、魂の経験であって修行であって、様々な機会が与えられて来たのです。
是故空中無色 ゼコクウチュウムシキ
是(これ)故(ゆえ)に、空の中には色が無い。
色の世界は、空の世界のひとつの表われ方であって、空の中に、独立して色が存在しているわけではありません。
シューニヤター(空)ヤーム(の中には)ナ(無)ルーパ(色)
無受想行識 ムジュソウギョウシキ
また、ここにも、受想行識が出てきました。色が抜けています。
つまり、色を通じて生じる受想行識では無く、悟りの状態を言っています。
無眼耳鼻舌身意 ムゲンニビゼツシンイ
したがって色を受ける眼耳鼻舌身意の作用もありません。
肉体の眼で見ることは、航空機のパイロットが、外の様子を、モニターを使って画像を見ているのと似ています。
本来はこんな装置を使用しないで見ることができると分りました。
臨死体験で幽体離脱した人達が、身体から抜け出して、上から見下ろして、自分の横たわった姿や、周りの人達の様子が見えたと語っているのも同じでしょう。
我々は生まれて来るときに前世の記憶を消されて肉体に入ります。
そのとき、新しい脳は、いわば新しいパソコンを与えられて、使用法を覚え、ソフトや情報を蓄えていくのに似ています。
使い方を覚えて、肉体の眼を通して観た世界は、モニターに映しだされる限られた世界。
行(サンカーラ)の働きによって、全体の中の、一部に興味を示し、認識が成り立つわけですから、好きな映像を選んで見ているのと変わりありません。
本当の世界は、右脳のインターフェイスを通して繋がる真我にあるのです。
無色声香味触法 ムシキショウコウミソクホウ
色を受ける眼耳鼻舌身意の作用が無ければ、これによって生じる色声香味触法も無い。
無眼界 乃至無意識界 ムゲンカイ ナイシムイシキカイ
眼耳鼻舌身意が無いからそれによって現れる眼界、耳界、鼻界、舌界、身界、意界の六界が無い。
六界というのは、情報(色)が、感覚器官(六根)から入って、感覚として知覚する領域をいいます。
釈尊が幾多の生涯を瞬時に体験できた世界は、肉体の眼によって見た世界ではないので眼界では無く、意識(脳)によって思い出されたのでもないから意識界でもありません。
無無明 亦無無明盡 ムムミョウ ヤクムムミョウジン
人の持つ見えない本体、ヴアィブレーションの領域が解れば、そこでは、無明も無いし、無無明(即ち明智)が尽きることもありません。
無明の後の十二因縁が省略されています。
十二因縁とは、人の過去世からの因縁を釈尊は天眼で観てまとめ上げたものです。
現在の業(ゴウ)が過去世からの因縁の結果であり、今の様々な業(ゴウ)が未来の結果を引き起こすというもの。
無明――過去世に無限に続いてきている迷いの根本である無知
行――過去世の無明によって作る善悪の行業
識――過去世の業によって受けた現世の受胎の一念
名識――胎内における心と身体
六入――胎内で整う眼などの五根と意根
触――出胎してしばらくは苦楽を識別するには至らず、物に触れる働きのみがある
受――苦楽、不苦、不楽、好悪を感受する感覚
愛――苦を避け常に楽を追求する根本欲望
取――自己の欲するものに執着する働き
有――愛取によって、種々の業を作り、未来の結果を引き起こす働き
生――生まれること
老死――老いて死にゆくこと
この十二番の老死を受けて次の乃至無老死と続きます。
乃至無老死 亦無老死盡 ナイシムロウシ ヤクムロウシジン   
乃至、老いて死ぬこともなく、また老死の盡(つきる)こともない世界です。
魂の次元では転生輪廻をくりかえしていますから、死ぬことはありませんでした。
老死の盡(つきる)ことがない、クイズのような回しですね。老死が尽きてしまうこと、これはつまり生れないということです。十二因縁が無いということです。
釈尊が解脱されたというのは、このような輪廻転生の世界から解脱されたということです。
転生輪廻は、分離意識に陥った、人々の長い時間が作り上げた迷妄の意識世界の死後版、つまり虚像ですから、地球上の魂の多くが、普遍意識の顕現をめざし、卒業という時期が来て、
ヴァイブレーションが上がった次元では、輪廻転生の世界も、虚像であるが故に消えてしまうこととなります。
今、宇宙の変容(アセンション)の時期に入って、霊界は、すでに消滅しているとの情報もあります。

無苦集減道 ムクシュウメツドウ
般若波羅蜜多を悟られた方は、苦を集めることもないから、苦を滅する道もいらないのです。
無智亦無得 ムチヤク ムトク
五感の認識判断作用に基づいた分別(ヴイジュニー)智(ヤー)が無い。
分別智が無ければ、得ようとする思いもない。
ちなみに、得ようとする思いは左脳の働きです。
宇宙と繋がった智恵を得るには、分別知(左脳)を働かせないことです。
ナ(無)ジュニャーナ(智)ナ(無)プラープティ(得)。
以無所得故  イムショトクコ 
無所得なるが故に。
物質的な波動領域で所得したといっても、広い波動領域から観てみれば、単に波動一面であって、物質を所得する意味は、全く何も無いのです。易しく言えば、死んだら、物質の何も持っていけないということです。  
菩提薩唾 依般若波羅蜜多故 ボダイサッタ エハンニャハラミタコ
菩提薩唾はボーディサットヴァの音訳。
悟りを求める者が、叡智の完成に到る道を、深く行じたことにもとづいて(依)、彼岸に到った。故に
心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖 シンムケイゲ ムケイゲコ ムウクフ
チッター(心に)ヴァラナ(罫礙が)ナステイトヴアダー(無い)。
心に引っ掛るものがない。ひっかかりや、さまたげが無い故に
恐怖心が無い。
遠離一切 顛倒夢想 究竟涅槃 オンリイッサイ テントウムソウ クキョウネハン
時空間に制約された領域では、個人は他とは分離しているという固定観念を生み出し、自我、パーソナリティという意識を作り出してしまいます。
このような転倒した意識から生み出される一切は、真実ではなく夢想でした。
それら一切から遠く離れた意識、普遍意識(彼岸)では、自由自在、融通無碍である生命の本来を把握できます。真理の究極は涅槃(彼岸に渡ったサトリの意識)でした。
三世諸仏 依般若波羅蜜多故 サンゼショブツ エハンニャハラミタコ
過去現在未来の三世、或は、前世現世来世に於いて悟られた諸仏も。 
般若波羅蜜多に依るが故に
「自分が自覚しているものの一切が自分の心で作り出した主観であり、幻影、夢想に過ぎない」と覚られました。
得阿耨多羅 三藐三菩提 トクアノクタラ サンミャクサンボダイ
(音訳)アヌッタラー・サムヤックサンボーディ
この上なき、正しく、平等な悟りを得ることができました。
故智般若波羅蜜多 コチハンニャハラミッタ
 それゆえに知るべし般若波羅密多は
是大神呪 ゼダイジンシュ
不思議な霊力を得られる真言であります。
マハーマントラの訳。
是大明呪 是無上呪 是無等等呪 ゼダイミョウシュ ゼムジョウシュ ゼムトウドウシュ
大いなる真言。これ以上無い真言。無比の真言。
能除一切苦 ノウジョイッサイク
一切の苦を能く除きます。
始めの方に出た漢訳の度一切苦厄はここのところから転用され挿入されたものです。
真実不虚故 シンジツフココ
真実であり、虚では無いのです。
説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 セツハンニャハラミタシュ ソクセツシュワツ
故に般若波羅蜜多の呪を説いていわく。
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 
ギャテイギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボジソワカ
波羅=彼岸 羯諦=行こう
彼岸に、彼岸に、彼岸に行こう、サロモンもサマナーも彼岸に行って、一切を成就しよう
カーティ、カーティ、 パラーカーティ、 パラーサンカーティ、ボデースバハーの音訳。
カーティ(行く)、パラー(彼岸)、パラーカーティ(彼岸に往けるときに)、サン(完全に)、パラーサンカーティ(彼岸に行きつきて)ボデースバハー(覚りあり、幸いあり)
般若心経 ハンニャシンギョウ            完

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